人生をゲームのようにしていく感覚を持つ
なぜやるか
- 人生を重く捉えすぎたり、真面目に生きすぎる事で、自身を追い詰めてしまった
- 休職をすることにまでなってしまった
- そうなったのなら、それを学びにして、今後を改善したい
- 休職になったことをきっかけに哲学・生き方・思考法を学んだものをアウトプットしたい
ゲームのような感覚を持つに至ったのは
- 東洋哲学からの学び
- SNSは一時的な楽しみであるという学び
東洋哲学からの学び
これからお話しする上での前提として、細かいことよりも、自身がどう捉え活かしていくかを重視しているので、誰が言ったかなど、その人の名前などは、そこまで気にしていない。
正確な情報を知りたいのであれば、一次情報をキャッチアップしてください。
私が学び、私の受け取り方をしたものをアウトプットします。
私とは認識するものである
世の中には、認識する者と認識される者の二つが存在している。
認識する者は、認識される事がない。
これは認識できるとしてしまうと、無限素行になってしまうからである。
例えとして、右目で右目を見ることはできない、鏡で見えたものは右目の像を見ているに過ぎないので、やはり右目で右目は見ることはできない。
もし、右目を見れた(認識される者)としてしまうと、それに対応する、認識する者が発生することになる。これが永遠に続いてしまうため、無限素行となる。
つまり、認識する者である「私」という存在は、何者からも認識対象にはなり得ないという特徴を持っている。
にも関わらず、私含め、人は、『私は〜〜である』という言葉を平気で使っている。
これがあらゆる不幸・苦悩を生み出している。
認識する者で、認識されない私に対して、〜〜であるという言葉は使えない。
〜〜であるという言葉は、認識される者にしか使いようがない言葉だからである。
認識されるものになり得ない私に対しては、『〜〜ではない』という文脈でしか語ることはできない。
つまり、私というものに対してのきちんとした理解がないから、そこにありもしない不幸・苦悩を背負って生きているということ。
例えるのなら、マリオというゲームをやっていて、私はコントローラーを持ってマリオを操作して、マリオ含めマリオの世界を認識する者であり、ゲームの世界は認識される者である。
ゲームの世界やマリオという登場人物、クリボーという外敵は、私からしたら"それ"を認識することはできるが、"それ"からは認識されようがないし、触れられようもないのである。
マリオがダメージを受ければ、マリオのHPはもちろん減るのだが、私のHPが減ることはない。
なのにも関わらず、マリオがダメージを受けたら、私も『いたっ』と声を出して、本当に痛がっている。
先述した、私というものに対してのきちんとした理解がないから、そこにありもしない不幸・苦悩を背負って生きているというのは、この状況だという事である。
まだまだたくさんのことを学び、興味深かったのですが、ここでのアウトプットはこの辺で終わりとします。
SNSは一時的な楽しみである
私はYouTubeやその他SNSをなるべく見ないための工夫をしてきました。
それは、それをしているときは楽しいのですが、後で振り返ったときに『無駄な時間を過ごしてしまったな』と感じるからです。
これは、真の意味での"楽しみ"にはなり得ていないからです。
それをなるべくやらない・見ないという方針で考えていましたが、あるYouTube動画を見ていて気づきました。
要約すると、真の"楽しみ"に身を投じていれば、自ずと、真の楽しみではないことに使う時間は無くなっていくというものです。
まとめ
主に二つの学びを通して
人生を楽しむためにゲーム感覚を持つ工夫をしていくのがいいかなと思いました。
真の意味で、マリオという人生を楽しむのなら、同じ場所に立ち止まってスマホを見ていることでなく、冒険を進めること。
仕事もプライベートでやりたいことも、全てゲーム感覚を持つ工夫をして、道中である冒険を楽しむことだと思います。